東京高等裁判所 平成8年(ネ)2152号 判決 1998年6月15日
控訴人
甲野静子
右訴訟代理人弁護士
池原毅和
被控訴人
高野伊太郎
右訴訟代理人弁護士
熊澤賢博
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
二 被控訴人は、控訴人から一四〇万七七四〇円の支払を受けるのと引換えに、控訴人に対し、別紙物件目録記載の各不動産について、長野地方法務局須坂出張所平成四年八月一八日受付第一〇〇九三号所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。
三 控訴人のその余の請求を棄却する。
四 訴訟費用は、第一、第二審を通じ、これを一〇分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人に対し、別紙物件目録記載の各不動産について、長野地方法務局須坂出張所平成四年八月一八日受付第一〇〇九三号所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
第二 事案の概要
一 争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実
1 控訴人の六男である甲野一郎(以下「一郎」という。)は、平成四年八月二〇日に自殺した。控訴人は、一郎の唯一の相続人である(甲一四)。
2 控訴人は、別紙物件目録記載の各不動産(以下「本件土地建物」という。ただし、個別的には、同目録記載の番号により本件土地(一)のようにいう。)を所有していた。
3 しかし、本件土地建物については、平成三年一〇月一四日受付第一一六五六号により、同月一日の贈与(以下「本件贈与」という。)を原因として、控訴人から一郎への所有権移転登記がされている。
4 また、本件土地建物につき、長野地方法務局須坂出張所平成四年八月一八日受付第一〇〇九三号により、同月一〇日の売買(以下「本件売買」という。)を原因として、一郎から被控訴人への所有権移転登記(以下「本件売買登記」という。)がされている。
二 争点
1 控訴人の主張
(一) 仮に、本件贈与が認められるとしても、本件贈与契約当時、一郎は、精神分裂病により心神喪失の状態にあり意思能力がなかったから、本件贈与契約における一郎の意思表示は、無効である。
(二) 仮に、本件贈与が認められるとしても、その贈与における控訴人の意思表示は、控訴人が精神分裂病であった一郎に暴力をもって強迫されたためにしたものである。
(三) 仮に、本件売買が認められるとしても、本件売買契約当時、一郎は、精神分裂病による心神喪失の状態にあり意思能力がなかったから、本件売買契約における一郎の意思表示は、無効である。
(四) また、仮に、本件売買が認められるとしても、被控訴人は、その代金のうち一〇〇〇万円を支払っていない。
(五) 控訴人は、平成七年九月一九日までに被控訴人に到達した同年七月一八日付けの準備書面により、被控訴人に対し一郎に対する贈与の意思表示を右(二)の強迫を理由に取り消す旨の意思表示をした。
また、控訴人は、被控訴人に対し、右準備書面により、本件売買契約を債務不履行又は信義則違反を理由として解除する旨の意思表示をした。
(六) よって、控訴人は、被控訴人に対し、本件土地建物の所有権に基づき、本件売買登記の抹消登記手続をすることを求める。
2 被控訴人の主張
(一) 控訴人は、平成三年一〇月一日、本件土地建物を一郎に贈与した。
(二) 被控訴人は、平成四年八月一〇日、本件土地建物を一郎から買い受けた。
(三)(1) 被控訴人は、右同日、一郎に対し、代金一一四〇万七七四〇円を支払った。
(2) 仮に、控訴人が一郎の強迫により本件贈与契約を締結したものであるとしても、控訴人は、強迫状態がなくなった後の平成三年一〇月一五日ころ、同月三〇日ころ、平成四年七月中旬ころ、本件売買契約の締結のころ、一朗に対しその追認をした、
(3) 被控訴人は、本件贈与契約が一郎の強迫を理由として取り消される場合に備え、平成七年一一月二九日の原審口頭弁論期日において、控訴人に対し、債務不履行を理由として本件売買契約を解除する旨の意思表示をした。
(4) よって、仮に、控訴人に本件売買登記の抹消登記手続をすべき義務があるとしても、控訴人は、右代金一一四〇万七七四〇円及びこれに対する代金交付の日である平成四年八月一〇日から支払済みまでの民法所定年五分の割合による利息の支払がされるまで、その履行を拒絶する。
第三 証拠関係
本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。
第四 争点に対する当裁判所の判断
一 本件贈与契約の締結について
証拠(甲一の一ないし八、乙一、五(控訴人作成部分は、控訴人本人尋問の結果(原審。以下、同じ)により成立を認めることができる。)、控訴人本人)によると、平成三年一〇月一日、控訴人が一郎に対して本件土地建物を贈与した事実(本件贈与)を認めることができる。
二 一郎の精神病歴と自殺について
証拠(甲二ないし九、一四、甲一六の一ないし一一、甲一七、一八、甲二四の一ないし一六、甲二五、二七、証人ライオンズみね子(原審。以下、同じ)、証人清水浩光(当審。以下、同じ)、控訴人本人)と弁論の全趣旨によると、次の事実を認めることができる。
1 一郎(昭和二九年二月一八日生)は、高校生時代にノイローゼになって自殺未遂事件を起こしたことがあり、卒業後、防衛大学校に入学したが、学校側から精神科において診察を受けさせられるなどした後中退した。一郎は、その後、東京の日本ギター音楽学校に通ったが、二年六か月で中退し、以後、転職を繰り返した。そして、父初太郎が昭和五八年四月二九日に死亡した後は、本件建物に母親である控訴人と二人で居住していたが、一時、東京で勤務し、平成元年五月一一日に実家に戻ってきた。
なお、一郎は、二六歳ころ、いわゆる「こっくりさん」と言われる自動書記現象が現れ、自分から進んで信州大学医学部附属病院の精神科に入院し、一時、退院して勤務したが、すぐ、同科に再入院したことがあった。
2 一郎は、平成元年五月一一日に実家に戻ると、母親の忠告を無視して雨中に庭に出てごみを焼いた。また、庭木(牡丹、つつじ、木蓮、さるすべり)を根元から切って燃やしてしまった。そこで、控訴人が親戚の者と相談し、同月一二日から同年九月三〇日まで、精神分裂病により栗田病院に入院させた。しかし、一郎は、同年一二月一八日の朝には、午前六時前に母親に対し、「何時だと思っているのだ、もう六時過ぎだぞ。」と怒鳴り、茶箪笥を引き倒した上、「殺してやる。」と怒鳴ったので、控訴人は、親戚に逃れた。そして、一郎が他家の庭木を切ったことから警察に呼ばれ、その結果、一郎は、同日栗田病院に再入院することになった。しかし、控訴人は、一郎に哀願されたことから、平成二年一〇月一日に一郎を退院させた。一郎は、退院後、同病院に通院し、平成三年二月二八日からは、北信総合病院の精神科に通院するようになった。
そして、一郎は、同科においても妄想型の精神分裂病と診断されたが、初診の時点では、主に不眠を訴えていたものの意思疎通は可能な状態であって、精神分裂病としては寛解状態であった。しかし、同年八月三日ころには、自己が病気であるという意識がなくなり、薬を飲まなくなった。
4 一郎は、同年九月二七日に右病院で診察を受けたが、その時点では、被害妄想状態がひどくなっていて栗田病院に対する異常な恨みを述べた。また、一郎は、医師との会話中に適切な答えをせず、急に宗教の話を始めてそれを延々と続けたり、誇大妄想に陥って自分には通力があって何でもできるとか、「こっくりさん」というのは実は現実にあるものだなどと述べた。一郎は、さらに、同年九月四日から造園業の茜苑に勤めていると説明したが、医師がそのことを聞き始めると怒りっぽくなり、聞き出せない状態であった。そして、当日は、薬を飲むことも注射を打つことも拒否した。
そこで、担当医師は、密かに控訴人に電話連絡をして翌二八日に控訴人を呼び出して事情を聴取し、そのころからは、控訴人が時々右病院を訪れ、受領した抗幻覚妄想薬を密かに食物中に入れて飲ませるようになった(右事情聴取の際、控訴人は、「一郎は、自分のいうことを全く聞かず、何か言うとすぐ怒るので、聞いているしかない。夜も三時間くらいしか寝ない。」と述べている。)。
しかし、一郎の病状は回復せず、平成四年六月一〇日ころから母親に金を無心して暴力を振るうことが重なり、一五日、二〇日ころには、夜間、大声を出して控訴人に暴力を振るうなどの行為が続き、民生委員を呼んだり、警察を呼んだりした(右一五日に民生委員から電話連絡を受けた担当医師は、措置入院の手続をとるしかないかもしれないと判断している。)。また、一郎は、夜中の二時、三時ころに急に戸外に出て駆け出したり、女性の絵ばかり描いたりするようになった。
なお、控訴人は、一郎から「旅行に行くから一〇万円をよこせ。」と言われているが、金の工面がつかないので帰れないとして、同月二〇日以降、しばらく家に戻らなかった。
5 なお、一郎は、平成三年一一月ころ、栗田病院(倉田文雄経営)を被告として損害賠償請求訴訟を提起したいとして法律扶助の申立てをしたが、平成四年七月六日付けの長野県弁護士会の法律扶助協会に対する報告では、調査の結果、一郎が幻覚妄想状態にあると認められるとされ、また、同月三日、担当弁護士が控訴人と一緒に出頭した一郎に対し調査結果を述べて説得したが、一郎は、納得せず、自分一人でも訴訟を提起すると主張した。
6 一郎は、平成四年八月二〇日に首吊り自殺をしたが、その三日ほど前の夜には、控訴人の寝室の隣の部屋で包丁を手にもって呆然と立っていた。そこで、控訴人が、「一郎、家の中を血で汚すまねはしないでくれ。」と言ったところ、「俺、そんなことはしないよ。」と告げて、二階の自室に戻ったことがあった。一郎が同月一六日以降に記載したものと認められるメモ書(甲一八)には、「借財のけじめつけられぬまま自殺をこともあろうに母まで相手にまきこんで」云々と記載されている。
7 平成三年二月二八日から一郎を診察していた清水浩光医師は、一郎には、妄想、観念連合弛緩、刺激性興奮などの症状が認められ、現実的事項に対する判断能力が著しく低下していたと診察している(甲二、証人清水浩光)。
三 本件売買契約の締結
1 証拠(甲一の一ないし八、甲一〇、一一、甲一九の一、二、甲二〇、甲二一、二二の各一ないし四、甲二三の一ないし六、乙一ないし九、一二、証人佐藤達彦、同松山嘉道、被控訴人本人(以上、いずれも原審。以下、同じ))と弁論の全趣旨によると、次の事実を認めることができる。
(一) 一郎は、平成三年一〇月一日、控訴人に本件土地建物を贈与させ、同月一四日受付でその旨の登記を経た後、同月一五日、アイフル株式会社(以下「アイフル」という。)のために本件土地(一)ないし(三)及び本件建物(七)に極度額一六〇万円の根抵当権を設定した上、同社から一〇〇万円を元利均等払(実質年利・一六パーセント、最終弁済期・平成八年一〇月五日)の約定で借り受け、同月一七日受付でその旨の登記手続をした。
一郎は、同月三〇日にも、日商信販有限会社(以下「日商信販」という。)のために本件土地建物に極度額一五〇万円の根抵当権を設定した上、同社からも金員を借り受け、同月三一日にその旨の登記手続をした。
(二) そして、一郎は、平成四年六月又は七月、アイフルを訪れた際、店長佐藤達彦から、「支払が苦しいのなら不動産を売却するという方法がある。」として、売却を勧められ、一、二週間後、アイフルの扱う不動産の評価、売却等を行っている被控訴人を紹介された。
(三) 被控訴人は、アイフルと一郎が打ち合せた日に一郎の住居を訪問した上、本件土地建物を実際に見聞してこれを購入することとし、一郎と事前に打ち合せ、また、アイフルから日頃登記事務を委任されている松山嘉道司法書士(以下、松山司法書士という。)及びアイフルとも打ち合せた上、平成四年八月一〇日、一郎と共にアイフルを訪れた。
(四) 一郎は、右同日、アイフルにおいて、松山司法書士がアイフルからの連絡に基づきあらかじめ準備していた各根抵当権設定登記の抹消登記手続のための委任状、不動産売渡証書及び所有権移転登記手続のための委任状に署名押印し、持参していた本件土地建物の登記済証を松山司法書士の求めにより同司法書士に交付した。
(五) 松山司法書士は、その後、アイフルから同社を権利者とする前示根抵当権設定登記の抹消に必要な書類を受領し(アイフルに対する一郎の債務は、同日、被控訴人が全額支払った。)、その後、松山司法書士、一郎及び被控訴人が日商信販を訪れ、被控訴人において、一郎の日商信販に対する前記債務の未払金四〇万円全額支払って、日商信販から同社を権利者とする前示根抵当権設定登記の抹消登記手続に必要な書類を受領した。
(六) その後、一郎は、被控訴人の指示により、同日付けで、被控訴人が経営し不動産業を営んでいる有限会社松南建物(以下「松南建物」という。)宛に土地建物代金の全部として一一四〇万七七四〇円を受領した旨の全部自筆の領収書(乙九)を作成し、被控訴人に交付した。
2 ところで、被控訴人本人は、「本件土地建物は自分が一郎から購入したものであり、その代金額は道路に面している本件土地(一)ないし(三)を坪当たり二三万円と評価して決定した。代金は、日商信販の債務を弁済して松山司法書士と別れた後、一郎と二人で喫茶店に入り抵当権抹消登記の費用を控除して残額全部を一郎に支払った。右領収書は、その際、一郎が記載したものである。」との趣旨の供述をする。
そして、一郎は、その記載から平成二年八月一六日以降に記入したものと認められるメモ書(甲一八)に「栗田との戦は継続中であるが 借金の返済が思うにまかせず 期限的に持ちこたえられず 家を手ばなすこととなった。甲野本家の当主として失格である」との記載をしているので、その点と右1において認定した事実によると、一郎は、同月一〇日、被控訴人(又は松南建物)との間で本件土地建物を一一四〇万七七四〇円で売り渡す旨の合意をしたものと認められる。
四 一郎の意思能力について
1 二において判示したように、一郎は、本件売買契約当時、精神分裂病であった上、平成三年九月ころからは、控訴人が密かに食物に抗幻覚妄想薬を混ぜて飲ませる程度の対応しかされていなかったため、平成四年六月ころには病状は特に悪化し、同年八月二〇日に首吊り自殺をしたものであり、本件売買契約は、その一〇日前に締結されたものである。
しかし、証拠(甲一六の一ないし一一、甲二七、証人清水浩光、控訴人本人)と弁論の全趣旨によると、一郎は、家族以外には人当たりはよく、一見すると、精神分裂病であることが分からない状態であったこと、一郎は、平成三年一二月ころから三井海上火災保険株式会社営業一課に勤務するようになっていたこと、一郎の死後である平成四年九月五日、控訴人又はその家族が医師に「六月以降、暴力のこと自分でも反省していて、すごく、優しくなっていた。ずっと、セレネース液は夜だけは使用していた。仕事もずっと続けていた。」と説明したこと、以上の事実が認められ、これらの点からすると、精神分裂病であったことから、直ちに、本件売買契約締結当時、意思能力がなかったとすることはできない。
2 そこで、さらに本件売買契約当時、一郎に土地建物の売買契約を締結するに足りる事理弁識能力があったかどうかについて検討する。
まず、証人佐藤達彦は、一郎はアイフルからの借入金については分割弁済金の支払を一、二週間遅滞することがあり、度々支払の催促を受けていたが、各月の支払はしていたと証言する。そして、証拠(甲一九の一、二)によると、アイフルは、平成四年八月一〇日に元金九一万九三六一円、利息三万八八五六円、遅延損害金二万一九四三円、請求違約金二万七五八〇円の合計一〇〇万七七四〇円を徴収したが、その利用明細書には経過日数として四八日、前回不足金として二万四五七四円と記載されていることが認められるので、一郎は、同年六月五日の弁済期を経過して同月二二日ころ一部の支払をしたが、同月分の支払金のうち二万四五七四円の支払ができなかったものと推認でき、そのため、アイフルとしては、従前の支払状況からしても一郎に分割弁済の能力がないと見て、そのころ本件土地建物を処分して弁済するよう勧めたものと推認できる。
そして、前示のように、被控訴人は、アイフルが一郎との間で打ち合せて決定した日に一郎の住居を訪問しているが、被控訴人本人の供述によると、被控訴人は、一郎にアイフルからの依頼内容を説明した後、「私が買ってもいいのですか。」と尋ねた上、一郎から「是非お願いしたい。」との返答を得たこと、被控訴人は、当日は、「これから調査をして希望価格を出すので、近日中にまた伺う。」として買受条件を示さなかったこと、被控訴人は、再度、一郎を訪問し、その際、本件土地建物全部の代金額を、道路に面している本件土地(一)ないし(三)の価額を坪二三万円と評価し、道路に面していない本件土地(四)ないし(六)及び本件建物(七)(八)を価額に含めないものとして決定したこと、しかも、右坪二三万円は、被控訴人が地元の同業者に尋ねて決定した単価であり、一郎自身は、金額的な話は一切出さず、本件土地建物の被控訴人への引渡しの時期も話し合わなかったことが認められる。
また、前示のとおり、一郎は、アイフルにおいて代金全部の支払を受けていない状態で売買による所有権移転登記手続に必要な書面に署名押印し、求められるまま、登記済証及び印鑑登録証明書を松山司法書士に交付している。そして、証人松山嘉道の証言によると、その場で松山司法書士から代金の決済をするように言われながら、一郎も被控訴人も決済をしなかったことが認められる。
さらに、一郎は、本件土地建物について売買契約書の作成を要求せず、被控訴人の求めによりその指示に従って松南建物宛の前示領収書(乙九)を交付しているが(被控訴人本人、弁論の全趣旨)、そこに記載されている金額はアイフルと日商信販に対する弁済金の合計額一四〇万七七四〇円に一〇〇〇万円を加算したものであり、坪二三万円を前提として前示の方法により決定した金額一一三一万七〇六九円(被控訴人本人の供述する算定方法による。)とは一致しない(被控訴人本人は、その変更の理由を全く説明しない。)。
以上の点からすると、一郎は、債務を弁済するため、アイフルの勧めに従って自分と母親とが居住する自宅(本件土地(一)ないし(三)、本件建物(七))を売却するに当たり、被控訴人の言い値の代金額を受け入れ、本件土地建物の引渡しの時期も定めず、売買契約書も作成しないで、被控訴人の指示どおりに所有権移転登記手続をしており、本件売買の態様は、通常の不動産取引と大きく異なっている。そうすると、前示二の一郎の精神分裂病の状態と後に判示するように代金一〇〇〇万円の支払がされたと認めることができないこととを合わせ考えると、一郎の右行為は、現実的な事項に対する判断能力が著しく低下し、本件土地建物の売買について事理弁識能力(正常な判断能力)のない状態で行われたものと認めるのが相当である(甲二、証人清水浩光)。
なお、前示のとおり、家族は、医師に対し、一郎が平成四年六月の暴行以降暴行をしなくなっていた旨説明しているが、証拠(甲二七、証人清水浩光)によると、それは、右暴行後、夜には、密かに抗幻覚妄想作用、興奮の鎮静作用のある薬を飲ませていたことによるものであり、そのことによって、一郎の判断能力が正常であったとはいえないことが認められるので、右判断の妨げとはならない。また、前示のとおり、一郎は、三井海上火災保険株式会社に勤務しているが、営業担当者として正常な勤務ができていたとは認められない(証人清水浩光)。
したがって、一郎は、本件売買契約締結当時、意思能力がなかったものと認められる。
3 なお、証拠(甲一六の一ないし一一、甲一七、一八、被控訴人本人)と弁論の全趣旨によると、一郎は創価学会の会員であり、一郎の記載した絵や文章の中においても宗教的な事項の記載が多々認められるところ、一郎が本件売買契約締結後に記載したものと認められるメモ書(甲一八)には、「いろいろ考えてもよい知恵浮かばぬ現在、松南建物高野伊太郎さん偶然か日蓮正宗信徒である」と記載されており、被控訴人本人も一郎と宗教について話したことを認める供述をしている。そうすると、そのような取引以外の会話をした際、一郎の宗教に関する言動等から被控訴人において一郎の異常に気づいた可能性も十分あり得るし、少なくとも、右に判示した取引の状況からして、被控訴人においても、売買交渉における一郎の応対の仕方からその異常に気づいたものと推認できる。
(被控訴人本人の供述によると、被控訴人は、八月一〇日には当初から売買契約書を作成する意図がなかったことが認められるが、被控訴人は不動産業を営んでいたのであるから、通常であれば売主である一郎から売買契約書の作成を要求されると考えてその準備をしておくはずであり、また、本件においては、本件土地建物の引渡しの時期について合意がされていないのであるから、自らの立場からしても売買契約書を作成して引渡時期や方法を約束しておくのが通常と考えられるにもかかわらず、被控訴人はそのような配慮を全くしていない。そのことは、本件売買が取引の常道から外れたものであることを示すものである。)
五 支払代金額について
1 被控訴人は、前示のとおり、本件売買契約の代金としてアイフル及び日商信販に支払った合計一四〇万七七四〇円を自ら支出したことにより、一郎に対し、少なくとも同額の代金の弁済をしたものと認められる。
2 ところで、被控訴人本人は、そのほかに根抵当権抹消登記の費用を控除した上、残金一〇〇〇万円の支払をした旨供述する。しかし、被控訴人本人は、手持現金を一二〇〇万円持参して支払ったものであると供述するのみで、その出所を明らかにしないし、そのような現金を常時手元に所持し得る状態であったことを示す預金通帳等を証拠として提出しない。また、被控訴人本人は、松山司法書士と分かれた後、一郎と二人で喫茶店に入り残金を交付した旨供述するが、前示のようにアイフルにおいて松山司法書士から代金の決済を終えるように告げられながら、その場において決済せず、あえて人目につく喫茶店において一〇〇〇万円という大金を支払うというのは不自然である。また、日商信販は、アイフルから徒歩で一〇分以内のところにあり(証人松山嘉道)、証人松山嘉道は、被控訴人及び一郎は、何かすることがあるのでアイフルに戻るということであった旨証言している上、被控訴人本人も、一郎と分かれた後、アイフルに戻って佐藤達彦にすべて終了した旨報告した旨供述しているのであって、そのような状況であればアイフルに戻って決済すれば足り、喫茶店において売買残代金の支払をしたというのは、その点においても疑問がある。さらに、証人松山嘉道は、登記費用については、根抵当権設定登記の抹消登記及び所有権移転登記について被控訴人と一郎の双方に確認した結果被控訴人において負担することになっていた旨証言するとともに、登記費用は、被控訴人から一七日に銀行振込みされて清算された旨証言しているのであって、被控訴人の右供述は、登記費用を控除して残金を交付したという点においても、疑問がある。さらに、所有権移転登記に必要な一郎の書類は、平成四年八月一〇日に松山司法書士に交付されているにもかかわらず、被控訴人は同月一四日に住民票写しの交付を受け、同月一七日になってようやく松山司法書士に所有権移転登記のための委任状を交付し、同月一八日に本件売買登記手続をしていること(甲二三の二、三、証人松山嘉道)、被控訴人本人は、売買代金は個人で支出したものであると供述するが、前示のとおり被控訴人が一郎に指示して領収書(乙九)を書かせていながら、その宛先は控訴人個人ではなく松南建物となっていること、被控訴人本人が、領収書は後日「きちんとしたもの」と差し替えることになっていた旨供述し、また、領収書を差し替えるために一郎を訪問したところ一郎の葬儀が行われていた旨供述し、右領収書(乙九)が暫定的なものであったことを認めていること、同月一〇日には一郎との合意により実施することが予定されていた本件土地の測量が未だ実施されていなかったこと(乙一〇の一、二、被控訴人本人)、前示のように、一郎が被控訴人のいいなりで代金額の決定に応じていることを考慮すると、右領収書(乙九)は、一郎が後に代金の交付を受けることを前提として、被控訴人の求めに応じ、残金の支払を受けないで仮契約書代わりに記載したことも十分考えられる(一郎の担当医師であった証人清水浩光も一郎の当時の病状であれば、代金を受領していない場合でも、求めによりそのような領収書を書いてしまうことも考えられる旨証言している。)。
なお、証拠(甲二七、控訴人本人)によると、平成四年六月二〇日ころ、控訴人が医師に対し一郎の給料は借入金の利息で消えてしまうと述べたことが認められるが、アイフル、日商信販からの借入金、株式会社マルフクからの借入金(甲二八ないし三〇)の弁済でも各月の合計額は一〇万円前後になり得たものと認められるので、一郎の浪費状況(甲二七、証人ライオンズみね子、控訴人本人)からすれば、その弁済に窮することも十分考えられる。また、一郎の死後も株式会社マルフクから残元金一九万一九七〇円と未払利息(遅延損害金)の請求があること(甲二八ないし三〇)からすると、一郎が一〇〇〇万円を受領して小口の借入金を弁済したということには疑問が残るし、一郎が死亡時に控訴人において前日渡した一万円しか所持しておらず、多額の弁済をしたことを窺わせる書類も所持していなかったこと(証人ライオンズみね子、控訴人本人)も不自然というべきである。そうすると、本件においては、被控訴人が代金として支払った金員の中からアイフル、日商信販以外の者に対して借入金の弁済をしたことを認めるに足りる証拠はないというほかない。
したがって、右一〇〇〇万円については、その支払を認めるに足りる証拠はないというべきである。
3 なお、以上判示したところによると、本件売買契約は無効であるが、代金として支払われた右一四〇万七七四〇円の返還義務と本件売買登記の抹消登記手続をする義務とは同時履行の関係に立つから、登記手続について履行の提供がされていない本件においては、契約が解除された場合(民法五四五条)とは異なり、右金員に対して利息(又は遅延損害金)が生ずることはない。したがって、利息との引換え給付を求める旨の被控訴人の主張は、失当である。
第五 結論
よって、控訴人の本件請求は、一郎の受領した一四〇万七七四〇円の返還と引換えに本件登記の抹消登記手続を求める限度で理由があるから、これを全部棄却した原判決を変更することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六七条一項本文、六一条、六四条本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官新村正人 裁判官岡久幸治 裁判官加藤英継は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官新村正人)
別紙物件目録<省略>